1920(大正9)年当時、人口約5千596万人。
1918(大正7)年まで続いた第一次世界大戦を経て、日本経済が急速に発展。百貨店が営業を始め、ラジオ放送や雑誌の創刊が行われた時代、交通機関にも大きな変革が起ころうとしていました。
それまでの主要交通機関であった路面電車だけでは、拡大する東京の輸送需要に追いつかなくなっていました。そうした中、地下鉄道をいち早く事業として推進し、実施に移そうとしたのが早川徳次(のりつぐ)です。当時39歳でした。
早川徳次は、地下鉄道の事業化計画の策定を
ほぼ独力で進めます。
地下鉄道の必要性を東京市をはじめ、鉄道の専門家や実業家、
有識者に熱心に説いて回りました。
そして、
1920(大正9)年8月に「東京地下鉄道株式会社」を設立。
ここから日本の地下鉄の歴史が始まります。
しかし、地下鉄道の実現は一筋縄ではいきませんでした。
地下鉄道の大規模な工事には、莫大な資金が必要になります。
早川は地下鉄事業の必要性について、周囲に理解を求めましたが、
彼がいくら熱心に地下鉄の必要性を説いても、
なかなか理解は得られませんでした。
さらに、関東大震災や不況のあおりを受けて
資金調達も難しくなります。
当初予定していた、新橋~上野間5.8kmの地下鉄道工事の着工を
断念せざるをえなくなりました。
それでも、早川の地道な努力と粘り強い説得の結果、
ついに1927(昭和2)年12月30日に日本で最初の地下鉄である
浅草~上野間2.2kmが開業します。
これが、現在の東京メトロ銀座線の一部であり、
東洋で初の地下鉄となりました。
車両基地、変電所等は上野駅近くの上野神吉町に設置し、
1000形と呼ばれた車両が3分間隔、1両で運行しました。
開業当日、午前6時の始発前から乗客が各駅に殺到し、
午前中だけで4万人を超える乗客が乗車しました。
浅草~上野間が開通したことにより、地下鉄の便利さを実証することができました。
その後も着々とトンネルの掘削は進められ……。
1934(昭和9)年に銀座~新橋間が開業したことにより、ついに、浅草~新橋間8.0kmが開通。
その後、紆余曲折を経て、1939(昭和14)年には現在の銀座線の路線を形成する
浅草~渋谷間の運行を、東京高速鉄道との相互直通運転という形で開始しました。
ところが、1941(昭和16)年
東京地下鉄道は大きな変革を迎えることになります。