1938(昭和13)年、陸上交通事業調整法が成立し、その後2年あまりにわたって審議が行われ、1940(昭和15)年12月末、その答申がまとめられたことを受け、鉄道省は直ちに東京市及びその周辺の地下高速鉄道を一元的に整備・運営する特殊機関の設立のため、法案の作成を行うことになりました。
そして1941(昭和16)年、帝都高速度交通営団法が制定され、同年7月4日に「帝都高速度交通営団(営団地下鉄)」が設立され(東京地下鉄道・浅草~新橋と東京高速鉄道・新橋~渋谷)地下鉄が統合されました。

東京の地下鉄事業を集約することになった営団地下鉄は、渋谷~浅草間の14.3kmの営業線を引き継いで運営し、さらに新線の建設にも着工していきます。

しかし、この年太平洋戦争が勃発。

終戦までの時代は、地下鉄の歴史にとっても苦難の連続となります。
度重なる空襲の被害により、営団地下鉄の経営は深刻化。電力不足、資材不足で運営は困難をきわめ、さらに職員の出征や男性の就業が限定されるようになったため、駅の職員の大半が女性になり、車掌・運転士にも女性が登用されることになりました。

1942(昭和17)年に着工されていた地下鉄工事(現:丸ノ内線)は、このような状況のなか、やむなく中止になります。

そして同年、地下鉄建設に情熱を注いだ早川徳次は61歳でこの世を去りました。
のちに彼は「地下鉄の父」と呼ばれるようになります。

終戦後、空襲により被害を受けた営業線の復旧に全力で取り組みますが、一方では日本の民営化を進める連合国軍総司令部(GHQ)によって営団地下鉄の解散が検討されていました。
さらに、東京都により都営交通へ一元化するために営団地下鉄の廃止が提案されたこともありました。
これらの困難を乗り越え、1942(昭和17)年の計画から実に12年の年月を経て、1954(昭和29)年1月に丸ノ内線最初の区間、池袋~御茶ノ水間の6.4kmが開業しました。

その後も地下鉄事業は戦後の日本の復興とともに、次々と延伸、新規開通を目指します。

営団地下鉄が、丸ノ内線の次に開業したのは日比谷線ですが、1964(昭和39)年の東京オリンピックに間に合わせるという社会的使命もあり、着工からわずか5年3ヶ月で完成させました。

日比谷線は、銀座駅で銀座線と丸ノ内線の2線と交差することとなり、この銀座総合駅の完成で地下鉄の利用客はますます増えました。買い物客で賑わう銀座の街は地下コンコースの完成でいっそう利便性が増し、商業的な価値も高まりました。

技術面では、すでに開通している地下鉄線との交差や、軟弱な地盤における工事への対処のため、より深く掘削する必要が生じ、機械の改良、開発が進みました。

潜函工法*も、日比谷駅の建設で使われました。建設に係わった人たちのこうした努力によって、日比谷線は作られたのです。

*潜函(せんかん)工法とは
主に軟弱な地盤地帯に建設する構造物の基礎工事に用いられる工法