1960年代になると日本は高度経済成長の時代になり、東京を中心とした首都圏の人口は急激に増加し、都市交通網の整備が重要な懸案となっていました。営団地下鉄(東京メトロの前身)の、銀座線や丸ノ内線、日比谷線の輸送力は限界に達していました。有楽町線は、このような丸ノ内線の特に池袋方面の混雑の緩和や東京都西北部及び埼玉県西南部の輸送力増強、中央区・江東区のウォーターフロント地域の業務人口・居住人口増加に対処することを目的に建設されました。
そして営団で6番目、東京で8番目の地下鉄道となった有楽町線は、1974(昭和49)年10月30日、池袋・銀座一丁目間で営業を開始し、1988(昭和63)年6月8日和光市~新木場間の全線が開業しました。
以下に有楽町線の開業の歴史や建設、運転、車両、新技術について紹介いたします。
開業年表
年 | 月日 | 開業区間・駅開業 | 営業距離 |
---|---|---|---|
1974(昭和49)年 | 10月30日 | 池袋~銀座一丁目 | 10.2km |
1980(昭和55)年 | 3月27日 | 銀座一丁目~新富町 | 0.7km |
1983(昭和58)年 | 6月24日 | 営団成増(現・地下鉄成増駅)~池袋 | 9.3km |
1987(昭和62)年 | 8月25日 | 和光市~営団成増(現・地下鉄成増駅) | 2.2km |
1988(昭和63)年 | 6月8日 | 新富町~新木場 | 5.9km |
1970(昭和45)年8月、有楽町線の第1期工事区間となる池袋・明石町(新富町)間の土木工事に着手しました。そのうち銀座一丁目・新富町の工事に時間を要したため、有楽町線の最初の開業区間を池袋・銀座一丁目10.2キロとして1974(昭和49)年10月開業しました。
この開業は都心部の1回での開業区間としては長大で、相次ぐ新線建設により営団の工事施工能力が鍛え上げられたこと、機械力の活用等で工事方法が効率化したこと、何より沿線関係者の理解を得られたことが大きく寄与しました。
有楽町線は、飯田橋・市ヶ谷間で皇居外濠の牛込濠、新見附濠の一部を通過します。この区間は両側に本線、中央に2本の留置線と検車用ピット線を設けた幅17~17.5m の4線型及び3線型のトンネルで、工事は濠内に工事用桟橋架設、築堤、仮締切り鋼矢板打ちを施工、掘削用支保工は土留めアンカーを施工して、大規模な機械掘削により行いました。
現在留置線として使われているこのスペースは、かつての有楽町線飯田橋車両基地の名残です。現在は10両編成が2本留置できるスペースとなっています。また、かつて車両基地だったスペースを生かしてモーターカーやレール削正機などの保守車両を留置するスペースとしても使用されています。
銀座一丁目・新富町間0.7キロの工事は、池袋~新富町間として着手しましたが、新富町駅の一部となる銀座一丁目寄りのシールド発進基地が高速道路ランプ下であったため、その築造に時間を要しました。この区間の複線シールドが銀座一丁目へ向けて発進したのは1978(昭和53)年8月で、翌1979(昭和54)年2月に到達しました。1980(昭和55)年3月27日に営業を開始しました。
1972(昭和47)年2月から土木工事に着手しました。工事区間の内、川越街道を外れ池袋に至る区間は道路の新設・拡張工事にあわせて建設することになっていましたが、道路工事について、住民からの猛烈な反対運動が生じ、同時施工する予定だった地下鉄工事も、巻き込まれる形となりました。
このため、この区間の地下鉄工事を単独で施工することになりました。沿線の住民運動で大きな影響を受けましたが、1978(昭和53)年末に工事着手し、1983(昭和58)年6月24日、営業を開始しました。
また小竹向原~池袋間は地下鉄13号線(副都心線)と併行区間になるため、13号線のトンネルもあわせて施工しました。
営団成増(現・地下鉄成増)~池袋間の工事は、1972(昭和47)年2月から着手し、成増・赤塚間の川越街道の下の工事は順調に進みました。川越街道を外れ池袋に至る新設道路内へ地下鉄を通す区間では、東京都の道路工事と地下鉄工事を同時施工することになっていました。
しかし、この道路工事に対して沿線の住民から猛烈な反対運動が起こり、有楽町線の工事もそれに巻き込まれる形となりました。
1972(昭和47)年には道路計画に対して前例のない住民投票を行う方針が打ち出され、その方法を決めるために時間がかかり、1975(昭和50)年になっても先の見通しの立たない状況となりました。
池袋・銀座一丁目を開業した営団としては、車両基地を確保するために和光市まで建設を急ぐ必要があり、1975(昭和50)年8月に東京都へ地下鉄工事先行の申入れを行いました。東京都も地元の強硬姿勢を見ていたため、同年9月にこの申入れを了承し、営団は1976(昭和51)年6月から地元説明を開始しました。道路工事に最も強く反対した小竹・羽沢地区では「対策連盟」が組織され、二十数回にもわたる協議がなされました。
ようやく1977(昭和52)年3月の覚書交換により土地境界立会い及び物件調査に入り、用地交渉を開始することができ、実質的に工事に着手することができたのは、1978(昭和53)年末でした。そして1983(昭和58)年6月営団成増(現・地下鉄成増)~池袋間を開業することができました。
氷川台~小竹向原駅間の氷川台二工区は、延長884mの駅間を結ぶトンネル部分で、住宅が密集した建物の真下を通っています。当初の計画では、直径3mの泥水式シールド工法によるパイロットトンネルを地下水位を低下させるため先行して施工し、その後、直径10mの本線トンネルを圧気式シールドで施工する予定でした。
ところが駅建設のために掘削したところ、武蔵野礫層から30~50cmほどもある玉石がごろごろと出てきました。また、この付近の地盤は地下水圧が非常に多く、地層は砂と礫が交互に層をなしており、これらの層は地下水の流れで崩れやすくなっていました。そのため、直系3mのシールド機では掘ることが出来なくなりました。
しかし、直径10mの泥水シールドとなると、世界にも前例がありません。それまでは、外径が3~4m程度の小断面での泥水シールドの実績はありましたが、特殊なものでも7mを超えるものはありませんでした。
営団と施工業者である鉄建建設、それにシールド機械製造会社の川崎重工業の三者で施工研究会を発足させ、約2年をかけて問題点の検討を行い、実用のめどが立ちました。
泥水式シールド工法では、切羽を安定させるための泥水管理が非常に重要で、掘削する地盤の状態によって泥水の濃度を変化させ、同時に泥水の圧力を調整しながら切羽を安定させます。このような大断面の泥水シールドの施工は初めてであったため、慎重に検証を重ね基準となる目標値を設定しました。
これらの努力により、礫混じりの砂質地質で各種の問題を解決しながら、延長884mの大断面泥水シールドトンネルを無事に貫通させました。この外径9.8mに及ぶ複線シールドは、シールド工法史上記録的なものになりました。
川越街道から東上線までの用地買収が1979(昭和54)年5月に完了し、土木工事に着手しました。その先の東上線との並行部は東上線の線路の移設や、また、営団(現・東京メトロ)線が東上線の上下線の内側に入るため、東上線の下り線を二度乗り越す必要があり、前後6回に及ぶ東上線の線路の切替えを行いました。また区画整理等の絡みや東京電力の鉄塔移設、白子川等の水路の横断、道路の付替え等、工事上の難題が重なりましたが、これらの難工事をクリアし、1987(昭和62)年8月25日、和光市~営団成増(現・地下鉄成増)間の開業にこぎつけました。
新富町~新木場間は、都市高速鉄道に恵まれないため、都心に近い割りに発展が遅れていたウォーターフロント地域への路線として、1972(昭和47)年の答申第15号で、その早期整備が求められました。この区間では、湾岸地域に車両基地用地として東京都港湾局の埋立地14万2800㎡が取得できることになったため、新木場車両基地を設けることになり、土木工事に着手しました。
1988(昭和63)年6月8日、新富町~新木場間が開業し、有楽町線は28.3キロの全線開業しました。
有楽町線に導入した7000系車両は、千代田線の6000系の車両の使用実績を参考にして、路線の条件に適合するよう性能や保安度、信頼性の向上を図ったものです。
主な相違点としては、列車管制をPTC(自動列車運行制御装置)化するために列車番号、行先、列車種別を地上に伝送するための車上装置を搭載したこと、回生ブレーキ付サイリスタ・チョッパ制御装置をさらに発展させ、電力使用料を節減すべく自動可変界磁チョッパ方式(AVFチョッパ)を新たに開発・採用したこと等があげられます。
1974(昭和49)年10月30日の営業開始にあたっては、7000系車両を95両新造し、5両編成の列車を朝混雑時3分間隔、夕混雑時5分間区、昼間時6分間隔で運行しました。池袋・銀座一丁目の所要時間は20分でした。
1983(昭和58)年、営団成増(現・地下鉄成増駅)~池袋間の開業に先立ち、営団は将来冷房化を可能とする7000系新車を100台増備し、保有車両を200両としました。全ての列車を10両編成とし、池袋・新富町間で朝混雑時3分30秒間隔、夕混雑時5分間隔、昼間時6分間隔の運転としました。
1987(昭和62)年、和光市~営団成増(現・地下鉄成増駅)間の開業により、和光市で東上線と接続し、相互直通運転を開始しました。小竹向原~新富町間の運行は、朝混雑時4分間隔、夕混雑時5分間隔、昼間時6分間隔となり、和光市~小竹向原間は、朝6分間隔、昼間6~12分間隔、夕方8分30秒間隔 としました。
1988(昭和63)年6月8日の全線開業時、新車50両を増備し、保有車両は320両としました。池袋~豊洲間での列車運行は、朝混雑時3分30秒間隔、昼間時6分間隔、夕混雑時5分間隔とし、その他は需要に合わせた運行としました。
有有楽町線からは、山陽新幹線用に開発製造された60kgレールを採用しました。レールの重軌条化は、単にレール断面が大きくなってレール交換周期を延長させただけでなく、断面強度が向上することによって、軌道狂いの減少やレールき損発生率を減少させる等、保安度の向上にも大きく貢献しました。有楽町線ではじめて導入されたこのレールは、以降に建設された路線でも採用されています。
桜田門駅構内の運輸指令所に、PTC(自動列車運行制御装置)を設置しました。これは、従来の運輸指令が主要駅の信号扱所の連動操作を運転指令電話等による連絡で行っていたものを、コンピュータ制御により自動化し、全面的に中央へと集約したものです。これにより、従来主要駅に設置した信号扱所が不要になるとともに、列車ダイヤの管理が行き届くようになりました。
路線数が増加し複雑に路線が絡み合うようになり、駅構内や連絡通路で目的の場所に行き着くことが非常に難しくなってきました。このため、営団は1970(昭和45)年7月、東京都交通局と覚書を交わし、路線別のラインカラーを決定することにしました。また、旅客への適切な案内情報についても全体としての整合性・統一性に欠けるきらいが生じてきたため、1972(昭和47)年に新しい旅客案内サインシステムの開発プロジェクトチームを編成し、検討を進めました。
千代田線・丸ノ内線・東西線が通る大手町駅で1973(昭和48)年に設置し検証した結果、非常に好評を得たことから、1974(昭和49)年秋開業の有楽町線池袋・銀座一丁目間11駅に全面的に新しい旅客案内サインシステムを導入しました。出入口に番号をつける等、新機軸を取り入れることによりお客様が駅構内がわかりやすくなりました。
池袋、銀座一丁目の二駅では、中野坂上と恵比寿駅とともに将来の自動改札化を検討するため、試験的に自動改札機が設置されました。
試験の結果、①自動改札機を設置するスペースの不足、②線路網がネットワーク化してる営団では、磁気記録容量が少なすぎること、③他社線の乗車券の磁気化が進んでいないこと、等を理由に他駅への導入は見送られました。
その後、新しい技術開発により性能が向上したことにより、営団地下鉄では1990(平成2)年から本格的に導入されました。
有楽町線は1970(昭和45)年8月に工事着手し、総額1292億円、キロ当たり(10.9キロ)119億円をかけて、1974(昭和49)年10月、第一期の池袋~銀座一丁目間が開業しました。有楽町線の路線名は、営団としては初の試みとして、開業前年の暮れから広く一般募集しました。これは、大きな反響を呼び、2519種類、3万591通の応募がありました。
その中で「有楽町線」と「有楽線」の案が最も多かったことから、1974(昭和49)年1月「有楽町線」と命名しました。その後、4回の部分開業の後、1988(昭和63)年6月に新木場まで全線開業しました。
第1期の池袋~銀座一丁目開業時には5両編成の列車で、朝ラッシュ時3分00秒間隔で運転いていましたが、和光市~新木場間の全線が開業し、東武東上線、西武有楽町線と相互直通運転を行う現在では10両編成の列車を朝ラッシュ時には2分30秒で運転し、一日約103万人の輸送を行うまでに発展しました。そして東京の地下鉄の一環としてなくてはならない路線となりました。