目次

1.時代背景

帝都高速度交通営団は、日比谷線に次いで東西線に着手しました。
1946(昭和21)年、戦災復興院は戦後復興計画案のひとつとして地下鉄建設を計画。東京復興都市計画鉄道として5路線を告示しました。このうちの5号線が1962(昭和37)年に都市交通審議会答申で中野~高田馬場~飯田橋~大手町~茅場町~東陽町を経て船橋方面へ向かう路線として示されました。
その背景には、都心に向かう旅客の増加に伴い混雑する国鉄(現:JR)中央線・総武線のバイパスとしての役割を担う必要があり、地下鉄5号線を中野駅で国鉄と接続させ混雑緩和と都心への利便性を図ることとしました。

東西線5000形車両

東西線5000形車両

こうした状況のなか、1962(昭和37)年10月、5号線はあえて車両基地はなくても混雑緩和の効果のある中野方面の高田馬場~九段下間から工事を開始しました。

工事中、最も影響が大きかったのは、東京オリンピックの開催を挟んで工事が進められたことでした。

特に、オリンピック開催中は競技会場の一部として沿線の早稲田大学の施設が使用されたため、土木工事だけでなく、軌道、建築、電気等の関連工事で有形無形の影響がありました。
さらに問題となったのは、車両の搬入でした。
通常のように車両基地を先行して整備すれば問題なかったのですが、高田馬場~九段下間は他の地下鉄に通じることなく独立した地下区間であったため、車両を地下レベルで移動させての搬入が不可能でした。
東京オリンピック終了後の1964(昭和39)年10月26日から、必要な車両18両を1カ月半がかりで吊り下ろすという特別な方法で搬入を行い、東西線の営業が開始されました。

車両搬入口

東西線車両搬入風景

東西線車両搬入風景

台車吊り下ろし作業風景

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2.東西線開通年表

月日 開通区間・駅開業 路線距離
1964(昭和39)年 12月23日 高田馬場~九段下 4.8km
1966(昭和41)年 3月16日
3月16日
10月1日
中野~高田馬場
九段下~竹橋
竹橋~大手町
3.9km
1.0km
1.0km
1967(昭和42)年 9月14日 大手町~東陽町 5.1km
1969(昭和44)年 3月29日 東陽町~西船橋 15.0km
1979(昭和54)年 10月1日 西葛西駅
1981(昭和56)年 3月27日 南行徳駅
2000(平成12)年 1月22日 妙典駅

高田馬場~九段下(4.8㎞)開通。
東京を東西に横断する意味でつけられた「東西線」の最初の区間が開通しました。
車両基地のない区間の開業に必要な車両18両の搬入は、トンネルの上部を開けて吊り下ろすという方法で1カ月半かけて行われました。開業時には、九段下駅に作られた側線を車庫として使用していました。当初は終日3両編成、5分間隔で4.8kmの区間を10分30秒で運行しました。

高田馬場付近工事

開通式(高田馬場駅)

中野~高田馬場間と九段下~竹橋間の工事が完成して、中野~竹橋間の9.7kmの営業を開始し、同年4月28日から中央線荻窪までの直通運転が開始されました。九段下から竹橋を経由した路線は、内濠沿いに道路が蛇行しているため、道路下に路線を計画することが不可能でした。そのため約800mにわたり皇居内濠内潜函工法となりました。

竹橋~大手町間開通により東西線が中野~大手町間の10.7kmに延伸。この時から、中央線との相互直通運転区間も荻窪~大手町間の14.7kmとなり、国鉄車両の乗り入れも開始しました。
この開通によって東西線は中央線のバイパス機能を発揮するとともに、丸ノ内線とも連絡することとなり、さらに路線としての機能が充実し、利便性が格段に向上します。また、都心への直結により高田馬場駅における西武新宿線からの乗り換え客が著しく増大しました。

中野付近工事

開通式(大手町駅)

東西線車両と総武線・中央線車両

大手町~東陽町間の5.1kmの工事を進め、その完成とともに中野~東陽町間15.8kmの営業を開始。同時に中央線との相互直通運転区間も東陽町駅まで延伸しました。
東陽町駅開業に伴い、深川車両基地が完成し、東西線の課題であった車両基地問題も解決しました。

東西線はさらに東に向けて建設が進み、1969(昭和44)年3月29日東陽町~西船橋間が開通し、30.8kmが全通。
この区間は地盤が弱いこと、また住宅が少ないことなどから高架線で建設を行い、南砂町坑口から西船橋間までの約14.0kmという距離の地上区間を持つ地下鉄路線となりました。
91両の新造車両を増備して全通した東西線。
この時点で営団全体の保有車両は1000両を突破しました。
東陽町~西船橋間をノンストップで、日本橋~西船橋間をわずか20分で運行する快速列車の運転も開始しました。この高速運転は、営団として初めての経験でした。

後に、1979(昭和54)年10月に南砂町と葛西の間に西葛西駅、1981(昭和56)年4月に浦安と行徳の間に南行徳駅、2000(平成12)年1月に行徳と原木中山の間に妙典駅が新設されました。

東西線南砂町坑口付近工事

東西線行徳付近工事

農地を横切って姿を見せた東西線の橋台

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3.掘削技術

1962(昭和37)年10月、営団は国鉄中央線との相互直通路線(5号線)高田馬場~九段下間の4.8㎞の工事に着手しました。
通常、新線を建設する場合は車両基地のあるほうから着手しますが、東西線はあえて混雑緩和の効果がある中野方面からの着手に踏み切りました。

この区間のうち、飯田橋の交差点までは全体的に山の手台地を通過するので地質上の問題も少なく土木工事は容易でしたが、騒音、振動によって次第に沿線住民の同意が得にくくなり、早稲田~神楽坂間ではその対策として一部アースドリルによる杭打ち工法を採用しました。

隅田川横断潜函工事

東西線において特筆すべき工法は、シールド工法です。
木場駅を中心とした、門前仲町~東陽町までの全長1770.6mをシールド工法で掘削しました。この周辺は地盤沈下により海抜0m地帯で、きわめて厄介な地質であったためこの工法が用いられました。
地盤が弱いうえ、木場という名のとおり付近は木材業者が多く、運河を利用して木材を運搬しているため、その運河を閉めきって工事を行うことが困難である点を鑑みた結果、シールド工法が導入されたのでした。

木場駅始端部から見た駅部シールドトンネル

木場駅工事風景

この工区で使用したシールドマシンの大きさは直径、長さとも7mで、その中に15人の掘り手、技術者が入って作業を進めました。
掘削が1日数十cmしか進まないこともある難工事でしたが、3年の歳月を経てトンネルは完成しました。

木場シールド駅

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4.東西線の車両

車両の特徴

車両の構造的特徴としては、台車と車体を直結するダイヤフラム形の空気バネを採用したこと、連結器は両先頭車および中間の1両または2両単位に廻り子式密着連結器とし、その相互間は棒状永久連結器としたことなどがあります。

5000形と称される東西線車両の最大の特徴は、車両の長さが20mとなったことです。これにより、1両あたりの旅客収容力は、約20%増しとなりました。
これは、銀座線車両と丸ノ内線車両との差と同じです。銀座線と比べると東西線車両は約50%近く大きくなりました。

東西線5000形車両

東西線5000形車両とアルミリサイクル車両

東西線05N系車両

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