目次

1954(昭和29)年1月に開業した丸ノ内線は、東京では銀座線に次いで2番目、日本では4番目に開業した地下鉄です。

この丸ノ内線は池袋~荻窪を結ぶ本線と、 中野坂上~方南町を結ぶ分岐線(開業当時、新宿~荻窪・中野坂上~方南町は荻窪線と呼称)で構成されています。

現在ではこれらの区間を丸ノ内線と呼んでいます。

日本の中央官庁をはじめ、 政治、 商業、 交通の要となる駅を結ぶ丸ノ内線は、 戦後初の地下鉄として、 デザイン性の高い、 真っ赤なボディ(開業時)をもって登場し、 その後の日本の発展を象徴するかのようでした。

丸ノ内線起工式

丸ノ内線全通式

1950年代は、現在の暮らしにつながるような出来事が次々と起こった時代です。

白黒テレビの放送が始まり、冷蔵庫、洗濯機、トースターなどが続々と世に出てきたのが1953(昭和28)年。

その翌年の1954(昭和29)年に丸ノ内線は開業しました。

丸ノ内線は、日本の戦後復興とともに歩んだ歴史ある地下鉄なのです。

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1954(昭和29)年に開業した丸ノ内線ですが、実は1942(昭和17)年6月に土木工事を着手していました。

しかし、戦争(第二次世界大戦)の悪化で中断され、完成したのは銀座線開業から実に27年も後のことでした。

戦後、工事が再開され、開業にこぎつけましたが、丸ノ内線は、帝都高速度交通営団設立後初めての事業ということもあり、さまざまなドラマを秘めての開業といえるのかもしれません。

まず、資金調達が大きなハードルになりました。
丸ノ内線建設にあたって、当初第1期工事費は41億6000万円を見込んで計画されました。
ところが、敗戦後の困窮時、この資金調達に営団経営陣は大いに苦慮し、血のにじむような努力をしました。

さらに、営団廃止の危機が訪れます。
戦後の日本は、民主化を進めるGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指導のもとにあり、営団は解体を迫られていました。
東京都からも、営団を廃止し、都営交通への一元化を提案されていました。GHQと東京都から突 きつけられた「営団廃止」。これをどのように乗り越え、丸ノ内線開業にまで至ったのでしょうか 。

営団地下鉄は行政の支配をかなり受けていたことから、GHQから戦争遂行を目的として設立された組織ではないかと指摘されていました。
しかし、「戦争目的とは関係なく、東京都区部及び周辺の交通調整を目的として発足した法人である」ことを懸命に説明し、存続が認められました。
東京都からの営団廃止の運動も、「多くの戦災復旧事業を抱える東京都にとって、地下鉄事業化は困難である」ことなどを理由とした政府の反対もあって、実現には至りませんでした。

こうして営団地下鉄は廃止の危機を乗り越え、 丸ノ内線工事を再開します。

池袋起点付近の工事現場

開業当時の池袋駅出入口

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月日 開通区間・駅開業 路線距離
1954(昭和29)年 1月20日 池袋~御茶ノ水 6.4km
1956(昭和31)年 3月20日
7月20日
御茶ノ水~淡路町
淡路町~東京
0.8km
1.5km
1957(昭和32)年 12月15日 東京~西銀座(現:銀座) 1.1km
1958(昭和33)年 10月15日 西銀座(現:銀座)~霞ケ関 1.0km
1959(昭和34)年 3月15日 霞ケ関~新宿 5.8km
1960(昭和35)年 11月6日 池袋本駅
1961(昭和36)年 2月8日
11月1日
新宿~新中野
中野坂上~中野富士見町
新中野~南阿佐ケ谷
3.0km
1.9km
3.1km
1962(昭和37)年 1月23日
3月23日
南阿佐ケ谷~荻窪
中野富士見町~方南町
1.5km
1.3km
1964(昭和39)年 9月18日 東高円寺
1996(平成8)年 5月28日 西新宿

〈第1期工事〉

工事にあたり、当時の営団地下鉄、鈴木清秀総裁の「いたずらに宏壮華麗を求めない」という方針により、第1期工事は土木工事の規模をなるべく小さく設定するなど、施設、設備等を必要最小限にとどめました。
工法としては、ほぼすべての区間が開削工法で行われました。
1951(昭和26)年4月、工事に着工。
第1期工事区間は、当初の予定では池袋~神田間でしたが、具体的な設計の段階で御茶ノ水~神田間に道路が狭いなどの問題があることが判明したため、池袋~御茶ノ水間に変更されました。

こうして、1954(昭和29)年1月、営団としては初の新線である丸ノ内線が開業しました。
開業にあたり、運賃は銀座線の水準を適用して15円均一制とし、運行は3両編成で、朝夕混雑時は3分30秒間隔、昼間時は4分間隔としました。
車体の色は真紅の色彩にステンレスの波形模様を描いた白い帯を配し、内装は淡いダスキーピンク色・前照灯も前面下部左右に2個を配した斬新なデザインで、多くの人から「新しい時代の幕開け」などと賞讃を浴びました。
開業当日は、銀座線以来の地下鉄新線・丸ノ内線に期待が集まり、16万1903人もの乗客が押しかけました。

底部アスファルト防水工事

工事中の御茶ノ水駅

池袋~御茶ノ水間開通式

300形車両

300形車両内部

〈第2期工事〉

丸ノ内線の第2期工事も、当初、神田~東京~日比谷が予定されていましたが、さまざまな事情により、淡路町~大手町~東京~西銀座(現:銀座)に路線変更されました。
第2期工事は御茶ノ水側から進め、完成したところから順次開業させました。
1956(昭和31)年3月20日御茶ノ水~淡路町間開通、7月20日淡路町~東京間開通で、池袋~東京間の所要時間が国鉄(現:JR)山手線より約8分短縮されたため、旅客に貢献することが大きく輸送量も増大しました。
翌1957(昭和32)年12月15日には西銀座まで開通となり、御茶ノ水~西銀座間の開業は予想をはるかに上回る乗客の増加をもたらしました。
1954(昭和29)年度に1日平均5万人弱だった乗客数が、1958(昭和33)年度にはおよそ20万人と約4倍にまでなりました。
これにより、将来的に3両編成を6両編成にする必要性が判明したのです。

工事中の東京駅付近

内幸町潜函式工事

東京駅国鉄連絡口上屋

東京駅改札口

〈第3期工事〉

丸ノ内線の第3期工事区間となった西銀座~新宿間の土木工事着手は1956(昭和31)年8月でした。
駅は、霞ケ関、国会議事堂前、赤坂見附、四ツ谷、四谷三丁目、新宿御苑前、新宿三丁目、新宿の8駅。
赤坂見附が上下型のホーム、霞ケ関、新宿三丁目、新宿は島式ホームとし、ホームの長さはいずれも将来を見越しての6両編成列車が使用可能な120mとなりました。

この区間は、①低地の軟弱地盤であり、②国鉄線(現:JR)との交差があり、③国会議事堂前駅付近を頂点とした高低差が問題で地形克服の技術が要求されました。

特に国会議事堂前駅の前後は、地形の関係で線路勾配35‰(パーミル)という、丸ノ内線で最も急勾配と曲線半径の小さい区間がありました。
そのため、車両の性能上は問題ありませんでしたが、曲線半径の小さい区間は走行中にきしみ音が発生し、その対策に悩まされることとなりました。
また、国家の中枢である永田町、総理官邸付近の地下23mの位置を路線が通るため、「霞ケ関・赤坂見附間地下鉄研究会」が各界の有識者で組織されました。
検討の結果、最も安全で周辺の建物への影響が少なく、かつ工期が確実な工法として延長231mにわたりルーフシールド工法が採用されることになりました。

工事は順調に進められ、西銀座・霞ケ関間の土木工事が予定より半年ほど早く完成したことから、当初の計画にはありませんでしたが1958(昭和33)年10月15日、この区間を部分開業することとしました。当時、中央官庁が集中する霞ケ関に一番近い駅は銀座線虎ノ門駅であったため、その不便を一日でも早く解消するとともに、相当な需要が発生することを期待しての開通でした。

1959(昭和34)年3月15日、霞ケ関~新宿間が営業運転を開始し、池袋~新宿間の16.6㎞が全通しました。
着工以来8年の歳月と278億円の巨額を投じた大事業であっただけに、待ちに待った開通でした。
この新宿開業にあたり、500形車両を1959(昭和34)年春までに、合計140両に増やしました。
運行は、朝の混雑時には4両編成で2分30秒間隔、夕方の混雑時は4両編成の3分間隔。
昼間時は3両または4両編成で4分間隔とし、池袋・新宿間を35分で結びました。

有楽町付近の工事模型

跨線線路橋の組立

床板コンクリートのできた跨線線路橋

日比谷公園内の鉄矢板打

ルーフシールドトンネル工事

新宿三丁目付近の土留鉄杭打

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丸ノ内線が全通し、赤坂見附で銀座線と丸ノ内線が同一ホーム・同一方向で相互に乗り換え可能となり、都心の交通は大きく飛躍しました。

東京における主要な交通の結節点である上野・新橋・渋谷・東京・池袋・新宿、業務中心地である日本橋・京橋・虎ノ門・大手町・霞ケ関、街である浅草・銀座・西銀座・新宿三丁目等をもれなく結び、都心部での基幹的交通機関として機能を果たすようになりました。

丸ノ内線全通式

赤坂見附駅ホーム

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丸ノ内線の歴史を語るうえで、荻窪線(現:丸ノ内線)は欠かせません。
当時、人口増加によって国鉄(現:JR)の最混雑時は乗車率300%という限界を超えた状況にあり、これを緩和するために営団地下鉄は201億円を要して荻窪線を建設しました。

現在では当時の丸ノ内線と荻窪線の2つを総称して「丸ノ内線」と呼んでいます。

では、荻窪線が開通するまでを見ていきましょう。

荻窪線全通式

〈第1期工事〉

1957(昭和32)年5月、荻窪線10.8km、総工事費160億7000万円の基本計画が決定され、丸ノ内線池袋~新宿間開通のあと、新宿~荻窪間(荻窪線)の工事が進められました。

理由は、国鉄中央線の混雑が限界を超えた状況にあり、これを緩和する必要があるなど当時の東京の都市交通事情があったことと、営団が中野富士見町に取得していた土地に総合的な車両基地の早期建設を実現するためでした。

営団としては、キロ当たり20億円を投じて建設することは採算上、難しいものがありましたが、このような社会的状況からも、路線延長を推進すべきであるという判断のもと、建設に踏み切ったのでした。

荻窪駅付近工事

荻窪駅工事状況

青梅街道南阿佐ケ谷付近工事

工事中の南阿佐ケ谷駅

〈第2期工事〉

荻窪線の工事は第1期と第2期の2回にわたって進められます。

その理由は、同時に日比谷線の建設に着手するため、技術陣を二分したことと、年度間の所要資金を平準化することにありました。

工事は、地質が比較的恵まれた条件であったため、
ほとんどの区間は開削工法を採用しましたが、今後の建設に最新技術を導入するため、分岐線の一部側壁を試験的にイコス工法で先行施工しました。それ以外には特殊な設計、工法はほとんどなく、着工以来約2年11カ月、分岐線は約2年8カ月を経て1962(昭和37年)に全線開業しました。

これにより当初の目的であった西部郊外地域と都心を結ぶことが可能になり、中央線の混雑緩和に貢献しました。

後に、1964(昭和39)年9月に新中野と新高円寺の間に東高円寺駅、1996(平成8)年5月に新宿と中野坂上の間に西新宿駅が新設されました。

方南町付近のイコス工事

中野車庫付近河川部工事

完成したイコス式隧道

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荻窪線の工事費用は201億円を要し、丸ノ内線の総工事費は479億円となりました。キロ当たり、17.5億円を要したことになります。
丸ノ内線・荻窪線は本線が24.2km、分岐線が3.2km、合計27.4kmとなり、銀座線のほぼ2倍の路線長を有する大路線となりました。

全通ポスター

旅客の混雑緩和を図るため、新造車両の増備を行い、1963(昭和38)年11月1日から本線運用の列車は6両編成とし、保有車両も306両に達しました。

運転間隔は丸ノ内線が2分15秒、荻窪線が4分30秒とし、池袋~荻窪間の所要時間は49分30秒でした。

02系車両

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1960(昭和35)年3月1日、営団の紋章を制定。
東京メトロの「M」の前身である営団地下鉄の「S」の紋章が誕生します。

英語で地下鉄を意味するサブウェイ(subway)の頭文字からとりました。

加えて、地下鉄のモットーでもある「安全(safety)」「正確(security)」「迅速(speed)」の頭文字3Sも象徴していました。

のちに「サービス(service)」のSを加えた4Sとして表していました。

後楽園駅

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東京の都心を走る丸ノ内線は、地下鉄としては珍しくところどころで地上に現れます。

これは、銀座線同様、地下の浅いところを走っているためで、土地の起伏等の関係で地上に一部その姿を見せています。

① 茗荷谷-後楽園間

② 御茶ノ水-淡路町間の神田川橋梁

③ 四ツ谷駅

上記の3ポイントでその姿を目にすることができます。

神田川橋梁

四ツ谷駅付近

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1986(昭和61)年7月12日、地下鉄互助会(当時)が運営する地下鉄博物館が開館。

16年を経過した2002(平成14)年にリニューアルを行い、翌2003(平成15)年に再オープンしました。

リニューアルの目玉の1つとして、丸ノ内線301号車を移設展示しています。

この車両は、当時(1954年)の最新技術を投入して製造された営団初めての車両であり、保存・展示することには大きな意義があります。

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1988(昭和63)年を皮切りに、1996(平成8)年までに丸ノ内線の全車両(336両)が02系車両に更新されました。

当初、この旧型の丸ノ内線車両は再び活躍する場を得る機会もなく、廃車の運命にありました。

ところが、鉄道雑誌(国内)に載せたメトロ車両株式会社の譲渡広告に端を発して、アルゼンチンのブエノスアイレス市に支社を持つ貿易会社の目に止まり、軌間、集電方式、電圧が奇跡的に一致したブエノスアイレス市の地下鉄で再び鉄道車両として蘇ることになりました。

アルゼンチンへの旅立ち

車両譲渡契約に関しては、アルゼンチン側の銀行融資問題で一時難航しましたが、1994(平成6)年12月、第1便30両が川崎港を出港し、翌年の4月からアルゼンチンの地下鉄として運行を開始しています。

その後、1996(平成8)年に売却した丸ノ内線分岐線車両18両を含めて、131両が海を渡り、現在もブエノスアイレス市の重要な交通機関として運行を続けています。

ブエノスアイレス市の地下鉄は6路線あり、そのうちのBラインを運行中ですが、このラインカラーは赤で、偶然にも日本における丸ノ内線のラインカラーと一致しています。

また、譲渡された車両は30年以上経過しているにもかかわらず、新車と思われたほど、保守整備がしっかりなされていました。

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国内でも、多少姿を変えてではありますが、銚子電気鉄道や日立電鉄で再度活躍しているケースもあります。
日立電鉄は2005(平成17)年3月31日をもって廃線しましたが、銚子電鉄では、2013(平成25)年現在も現役で走っています。

もともと銀座線で使われていたものが丸ノ内線の分岐線へ転属、そのあと銚子電鉄に譲渡されました。
アルゼンチンへ渡った車両は、真っ赤なボディのまま走っていますが、銚子電鉄ではペイントされたり、パンタグラフをつけたりと受け入れ先の鉄道仕様になっていました。

2011年11月には丸ノ内線リバイバルカラーに復元され、赤地に白帯のデザインで走っています。

これは、今となっては銚子電鉄だけにしか走っていないので、往時を懐かしむ鉄道ファンの切なる願いもあってのことでしょう。

余生をまたもとの姿に戻って過ごせるのも、丸ノ内線がいかに広く親しまれていたかの証拠です。