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帝都高速度交通営団は、銀座線、丸ノ内線に次いで、日比谷線に着手しました。
1957(昭和32)年5月、北千住~中目黒間の20.3kmを、1958(昭和33)年~1964(昭和39)年、総工事費348億9300万円で計画しました。
時代背景としては、1964(昭和39)年10月に開催される東京オリンピックを前に、都市の交通網を充実させることが社会要請としてありました。

日比谷線の最大の特徴は、都内の北東の北千住と西南の中目黒を途中銀座を中心として上野・築地・霞ケ関・六本木など要所を経由し、北千住で東武伊勢崎線に、中目黒で東急東横線に相互乗り入れすることでした。

当時、相互直通運転方式の導入を決定したことは世界的にも初の試みでした。今では当たり前のようになっている他社線との乗り入れは、利用客の利便性を格段に向上させました。

戦後の復興を果たし、日本が更なる発展をするための東京オリンピックに向けた工事は、多岐にわたっていました。
オリンピック会場の建設、都内道路の整備、東海道新幹線の新設なども、オリンピック開催に間に合うように工事が進められていましたので、日比谷線工事は、人手不足、資材不足のなかで行われました。

日比谷線3000形車両

東京オリンピック風景

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月日 開通区間・駅開業 路線距離
1961(昭和36)年 3月28日 南千住~仲御徒町 3.7km
1962(昭和37)年 5月31日
5月31日
北千住~南千住
仲御徒町~人形町
2.1km
2.5km
1963(昭和38)年 2月28日 人形町~東銀座 3.0km
1964(昭和39)年 3月25日
7月22日
8月29日
霞ケ関~恵比寿
恵比寿~中目黒
東銀座~霞ケ関
6.0km
1.0km
2.0km

営団初の相互直通運転に際し、まずは東武鉄道・東京急行電鉄との調整にあたりました。例えば集電方式を第三軌条方式から架空電車線によるパンタグラフ方式に統一することなどがこれにあたります。その他にも相互直通運転の乗り入れ区間、運転士の取り扱いなどの問題を一つひとつ解決し、協定書や契約書の形に整えていきました。
これらの貴重な経験は、その後の営団が行うことになる国鉄(現:JR)、小田急電鉄、さらには西武鉄道との協議の雛形になりました。このような様々な課題をクリアしながら、営団は1959(昭和34)年5月に日比谷線南千住~仲御徒町間3.7kmの土木工事に着手し、あとを追って軌道、電車線路等の路線設備も整備されました。そして、1961(昭和36)年3月28日、南千住~仲御徒町間で営業を開始しました。

南千住付近工事

日比谷線開通式(上野駅)

1962(昭和37)年5月、北千住~人形町間の8.3kmが開通し 、同時に東武伊勢崎線と相互直通運転が開始されました。伊勢崎線の北千住~北越谷間の19kmと合わせて27.3kmの線区を営団の3000形車両と東武の2000系車両が相互直通運転するようになり、都心部へ乗り換えなしで行けるようになりました。
このことにより、利便性が向上し伊勢崎線沿線の開発も促進され利用客が予想以上に急増しました。
翌年2月、人形町~東銀座間の3.0kmが開通し、同時に都営地下鉄1号線(浅草線)も東銀座まで開通し、銀座線、丸ノ内線、日比谷線、都営浅草線の4本が絡みあうようになり、東京の地下鉄はようやく路線網らしくなってきました。

東銀座~霞ケ関間の建設は、東京都の地下道路計画と競合することになり、後回しになるという事態が起こりましたが、霞ケ関~恵比寿間の6.0kmが先に、1964(昭和39)年3月部分開通となりました。
ここでは、当初終日4両編成で、6分間隔の運行でした。
日比谷線の片方の終着駅、中目黒のひとつ手前の恵比寿までは開通したものの、恵比寿~中目黒間の1.0kmは、距離も短く、工事の規模としては大したことはありませんでしたが、乗り入れに関して東急との意見調整に時間がかかりました。
工事着手までの手間がかかったため、突貫工事となりましたが、同年7月には東急東横線中目黒駅まで開通しました。

歌舞伎座前工事

直通式(北千住駅)

中目黒付近工事

開通式(霞ケ関駅)

工事が後まわしとなっていた東銀座~霞ケ関間が1964(昭和39)年8月に開通し、日比谷線20.3kmが全通。この年10月の東京オリンピックの開催に間に合いました。
日比谷線全通と同時に、東急東横線中目黒~日吉間が相互直通運転を開始し、東武伊勢崎線北千住~北越谷間とあわせ3路線での直通運転が実現しました。
この時点での総工事費は636億円。当初の予算より2倍近くかかり、1kmあたり約31億円の工事費でした。

日劇前夜間工事

日比谷線全通式(銀座駅)

直通式(中目黒駅)

東京オリンピック風景

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日比谷線は北千住~南千住付近の地上区間以外、ほとんどが開削工法で建設されました。開削式における土留め杭打ち工法はハンマーによる打撃打ち込みでしたが、銀座地区の地質が硬い関係もあって騒音等、沿道に配慮する必要が出てきました。解決策として、あらかじめアースオーガーで穿孔したのち杭を建て込む方法をとりました。
また、それまで支保工(しほこう:トンネル工事等で、工事が終了するまで側圧、土圧を支える仮設構造物)は木製でしたが、虎ノ門・神谷町において、H形鋼を使用。その後銀座・日比谷地区は全面鋼製の支保工となりました。東京オリンピックの開催を目前に、日比谷線全通が社会的な要請であったので、営団は急ピッチで工事を進めました。

六本木付近工事

神谷町付近工事

恵比寿駅付近工事

広尾付近工事

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日比谷線に使用する車両は、東武・東急と相互直通運転を行うため、直通車両規格統一分科会が開かれ検討がなされました。まず直通運転に関する協定を取り決め、軌間・集電方式・電車線電圧を決定、これらを基準に直通車両統一規格を3社によって決定し、車両の設計が進められました。
車両の寸法・構造・扉の位置や数等の車体関係から、制御・ブレーキ方式や加減速度等の性能に関することや運転士の取り扱う機器・保安装置等検討事項が山積みでした。一例として、保安装置が3社独自のものであったことから営団車両にはそれぞれの保安装置に関する機器を搭載することになり、機器配置が大変でした。この問題は後に運転室を改造するたびに配置に苦労する原因となり、03系車両に置き換わるまで続きました。
営団は、日比谷線でも高性能車両を目指し車体関係や各装置等の研究開発を進め、車体の内外板の無塗装化、ATC方式の保安装置、剛体架線とパンタグラフによる集電方式等の採用を行いました。
また、地下部の高加減速性・地上部の高速性能を得る開発をしつつ、起動時・ブレーキ時の速度の変化を極力少なくし乗心地をよくする開発がなされました。
こうして相互直通運転に関する困難を克服し営団の最新技術を投入して1961(昭和36)年に誕生した3000形でした。当初、2両編成で運転していましたが、翌年には4両、1966(昭和41)年には6両、1971(昭和46)年には全編成8両として輸送力増強を行ってきました。
その後、経年による老朽化及び冷房化対応の意味も含めて、1988(昭和63)年から03系車両に順次置き換えられていきました。

3000形

03系

3000形車内

3000形運転台

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日比谷線の両端駅で他社線との乗り入れを行う相互直通運転は、この線の大きな特徴でした。
1962(昭和37)年、北千住~人形町間開通に伴い東武伊勢崎線北越谷駅まで直通運転が開始され、延伸開通ごとに直通区間が伸びていきました。
1964(昭和39)年、日比谷線全通と同時に中目黒駅で東急東横線日吉駅まで直通運転が開始され、東武線・営団線・東急線が日比谷線を挟んで結ばれました。その後、直通区間は東武線が東武動物公園駅、東急線が菊名駅まで伸び、旅客の利便性が向上しました。
2013(平成25)年3月16日、東横線と東京メトロ副都心線の直通運転開始に伴い、日比谷線は東横線との直通運転を終了し、すべての電車が中目黒駅発着となりました。同時に東武との直通運転区間を東武日光線南栗橋駅まで延長しました。