目次

1.千代田線全通までの苦難

帝都高速度交通営団は銀座線・丸ノ内線・日比谷線の混雑解消を図るため、都市交通審議会答申6号において東京9号線として確定した千代田線の建設に着手しました。
昭和30年代後半から40年代前半にかけて、営団は年間約6kmのペースで新線建設を推進していました。しかし、千代田線の建設においては、一部地元の協力を得ることが難しくなり、建設速度が低下する兆しがありました。
千代田線の当初の建設基本計画は、当時の建設速度を反映し、1964(昭和39)年に着工し、1968(昭和43)年度全線開通予定でした。しかし、着工が1966(昭和41)年7月にずれ込んだのをはじめ、さまざまな理由で計画が改訂され、綾瀬~代々木公園間が開通したのは1972(昭和47)年10月でした。それでも、ここまでは6年間で20.9kmと、多少ペースが落ちたくらいでした。しかし、代々木公園~代々木上原間の1.0kmは、1972(昭和47)年11月に着工し、完成したのは1978(昭和53)年3月でした。

その理由は、協議の複雑化にありました。営団は、相互直通運転を行うために小田急との二者協議を進める予定でした。しかし、地下鉄の乗り入れと、小田急線の連続立体化事業を同時に施工することになったため、東京都が事業者として参加することとなり、二者協議が三者協議になったのです。さらに、小田急が代々木上原~東北沢間の線増工事も同時施工とし、それらの鉄道関係の工事を日本鉄道建設公団(1964(昭和39)年発足~2003(平成15)年解散)の資金で行うことにしたため、協議がさらに複雑化したのです。また、沿線では、周辺環境への影響を心配する声もあり、用地の取得も難航しました。
こうした苦難を乗り越えて、千代田線は1978(昭和53)年3月31日に代々木公園~代々木上原間が開通し、全通に至りました。綾瀬~代々木上原間21.9kmの建設に12年を費やしました。

千代田線全通と相互直通運転発車式

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2.千代田線建設工事

開通年表

月日 開通区間・駅開業 路線距離
1969(昭和44)年 12月20日 北千住~大手町 9.9km
1971(昭和46)年 3月20日
4月20日
大手町~霞ケ関
綾瀬~北千住
2.2km
2.6km
1972(昭和47)年 10月20日 霞ケ関~代々木公園 6.2km
1978(昭和53)年 3月31日 代々木公園~代々木上原 1.0km
全通
1979(昭和54)年 12月20日 綾瀬~北綾瀬 2.1km

北千住~大手町間(9.9km)開通。
1966(昭和41)年7月、第1期工事区間である綾瀬~大手町間の工事に着手しました。この区間は途中、北千住、町屋、西日暮里、千駄木、根津、湯島、新御茶ノ水を経由して大手町に至るものです。綾瀬駅から北千住駅に至る区間は、北千住~大手町間と同時に完成させたのですが、新設した綾瀬駅を国鉄(現:JR)常磐線の線増工事の都合で国鉄に貸与したため、最初の開通区間は大手町~北千住間の9.9kmとなりました。
当初6000系は試作車のみのため、5000形車両3両編成で8駅間を16分で運行しました。

5000形での開通式(大手町駅)

国鉄で使用中の綾瀬駅

北千住坑口の工事

100キロ記念元標

不忍池付近の工事

新御茶ノ水駅エスカレーターの工事

第2期工事区間は大手町~代々木上原間に設定されました。
最初に取りかかった工事が完成し、1969(昭和44年)年12月20日から運転を開始しました。また、1971(昭和46)年4月20日に綾瀬~霞ケ関間で営業運転が開始されました。このとき、常磐線との相互直通運転を目前に、6000系の新車を増備し、終日10両編成で運行しました。

皇居前工事

霞ケ関駅工事

霞ケ関折り返し工事

大手町~霞ケ関間開通式(二重橋前駅)

綾瀬駅工事

6000系車両搬入

綾瀬駅発車式

霞ケ関~代々木公園間6.2kmは、東京都が代々木公園の整備計画の期限を決めていたため、工事の開始は1968(昭和43)年12月になりました。
また、代々木上原で小田急線と接続することで小田急との協議を進めていましたが、小田急線の連続立体化や線増工事についての協議が東京都を巻き込み三者協議になるなど時間がかかることが明らかになったため、営団は代々木公園までの営業を1972(昭和47)年10月20日に開始しました。

それと同時に国鉄車両は乗り入れ区間を綾瀬~代々木公園間20.9kmに延長したのです。 そして、代々木公園~代々木上原間は、協議の複雑化や沿線の周辺環境への懸念から、工事の着手が1972(昭和47)年11月まで遅れ、完成は1978(昭和53)年3月になったのです。
1979(昭和54)年12月に綾瀬~北綾瀬間2.1kmの分岐線(車庫線の旅客扱い化)が開業しました。

開通式(国会議事堂前駅)

代々木公園付近の工事

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3.6000系 エレクトロニクス技術の導入①抵抗制御車からサイリスタ・チョッパ制御車への転換

営団は、当時急速に開発が進んでいたエレクトロニクス技術を取り入れました。そのなかで代表的なもののひとつが、抵抗制御車からサイリスタ・チョッパ制御車への転換です。営団はかねてより、このサイリスタ・チョッパ制御の実用化について研究開発に取り組み、実用化試験に予想外の時間を要しながらも1971(昭和46)年3月、量産化に成功したのです。 チョッパ車の開発は初めての経験でした。サイリスタ・チョッパ制御は電力回生ブレーキとあわせて従来の抵抗制御より格段に電力使用量を節約できるもので、モーターの制御が抵抗制御では得られないほど滑らかになる利点もありました。

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4.6000系 エレクトロニクス技術の導入②地上信号機からキャブシグナル(車内信号機)への転換

営団が取り入れたもうひとつの代表的なエレクトロニクス技術が、地上信号機からキャブシグナル(車内信号機)への転換でした。
当時、キャブシグナルは東海道新幹線で採用されていました。新幹線の場合、高速運転のため、地上の信号機を運転士が視認しにくい問題を克服するのが目的でした。一方地下鉄では、線形の関係で信号機の見通し距離を確保するのが困難になる場合が多く、それを克服するために、このキャブシグナルは大いに威力を発揮しました。

最初のキャブシグナル運転台

5000形車両の運転室

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5.6000系車両の車体

千代田線6000系車両は、先に記述したエレクトロニクス技術の導入のほか、車体においても経済性をより高めるため、軽量化による省エネルギー化をめざしてアルミニウム合金車体を採用しました。従来はステンレスの外板を使用し、無塗装によるメンテナンスフリーの車体を追求していましたが、アルミニウム合金の材質と押出技術や溶接技術の進歩が相まって、車体製造に採用することが可能になりました。
このように、ひとつひとつの技術はそれぞれ実用化に困難を伴っていましたが、千代田線の車両ではそれらが総合的に解決され、画期的な6000系車両が誕生したのです。

6000系試作車

6000系非常梯子

6000系10両編成

6000系車両の内部

06系車両

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6.建設工法と換気方式の変化

第1期工事の特徴は、北千住~町屋間で隅田川横断のため単線シールドトンネルを2本掘削し、湯島~新御茶ノ水間で神田川横断のためパイロットトンネルを伴う単線シールドトンネルを2本掘削したことです。さらに、新御茶ノ水駅では、地下6層の立坑を基地として、まず2本のシールドを掘進し、それから中心部をかんざし桁で受けながらつないで、メガネ型の構築としたことです。そして新御茶ノ水駅では、地形的な関係で起点側の深さが34mにもなり、ライズ20mにもなる長大なエスカレーターを4基並べて設置しました。いずれの区間も、地形的な問題で他の工法では不可能だったため、本格的なシールド工法で完成させたのです。

一方で、町屋から西日暮里、千駄木、根津までの道路の幅員が狭かったため、約4kmにわたり、掘削幅が小さく掘削深さが大きくなる上下型のトンネルとしました。さらに経過地の地盤が軟弱だったため、山留めの工法に柱列式地下連続壁を多用しました。
この結果、地下のトンネルで一般的な工法のものは、北千住、湯島、大手町の3駅だけとなりました。

荒川橋梁工事

単線シールドトンネル

新御茶ノ水駅エスカレーター工事

新御茶ノ水駅完成予想図

このようなトンネル形態の変化によって、最も影響を受けたのはトンネルの換気方式でした。従来、浅いトンネルの場合は歩道に設置された通風口から列車のピストン作用により、空気の取り入れと排出をし、大規模な駅部だけが機械による換気方式でした。それが東西線、千代田線では、機械換気方式の割合がより多くなったのです。

第2期工事区間のトンネルは、地形の関係もあって、シールド工法が主体となりました。丸ノ内線がルーフシールドで通過した国会議事堂付近では、さらにその下を通過するため、円形シールドとし、青山墓地やその先の民地下でもシールド工法を採用しました。
また、シールド工法については技術的な経験が蓄積されていたことから、複線型の大断面シールドを国会議事堂前の先と青山南町民地下で初めて導入しました。さらに技術的特徴のある工事としては、丸ノ内線の下での工事、代々木公園内地下留置線でのアースアンカー工法の採用と作業の機械化、代々木公園駅での土留めを兼用するトンネル側壁本体の地下連続壁工法などがあります。

国会議事堂前駅シールド工事

乃木坂~表参道間工事

明治神宮前駅上屋工事

明治神宮前駅始端工事

代々木公園駅留置線工事

代々木公園駅留置線

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7.綾瀬~北千住間大規模リフレッシュ工事

千代田線綾瀬~代々木上原間は1978(昭和53)年3月に全通しました。このうち、綾瀬~北千住間にある東武伊勢崎線立体交差型構築付近の約300mは1968(昭和43)年12月盛土構造で完成していました。1971(昭和46)年になって伊勢崎線複々線化工事が行われましたが、千代田線との交差箇所は営団の箱型トンネルに伊勢崎線の橋桁が直接乗っている形でした。この地域は地盤が軟弱であるためトンネル全体が経年とともに沈下してきました。
沈下自体は事前に予測されていたため、当初はレールレベルのかさ上げと架線吊下げ長の縮小で建築限界の維持管理を行い、列車の安全運行を確保してきました。

しかし、千代田線に近接して通過する常磐新線つくばエクスプレスの工事が決まり、その影響で再沈下が想定されました。そのため、同線の工事が本格化する前に、伊勢崎線との交差箇所である箱型トンネル内の建築限界の確保を図るため、千代田線の軌道を低下させ、あわせて信号設備等の一部を更新し、バラストを入れ替えるなど大規模なリフレッシュ工事を行いました。
工事の規模が大きいため、列車の運行を行いながらでは3カ月以上にわたると予想されました。その間は、徐行運転やダイヤの乱れで乗客や他社線に迷惑をかけることになるため、列車を1日運休して集中工事にしました。工事は、比較的利用客が少ない夏休みに合わせ、2001(平成13)年8月26日深夜1時18分に開始し、23時37分に終了しました。運休に関しては、千代田線は北千住~代々木上原間の折り返し運転を行い、綾瀬~北千住間は代替バスを運行させました。

開業時の東武伊勢崎線交差部風景

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