目次

1.銀座線の歴史は日本の地下鉄の歴史です

日本で最初に地下鉄が開通したのが、今から80年以上前の1927(昭和2)年、浅草~上野間2.2kmでした。
東洋で初めての地下鉄が東京に誕生したことは、日本の近代化の一つの証として大いに歓迎されました。

開業時は、「東京地下鉄道株式会社」が建設にあたりました。
その開業に最も貢献したのが、のちに「地下鉄の父」と言われる早川徳次(のりつぐ)でした。
東京地下鉄道株式会社は、その後も路線を順次延ばし、
1934(昭和9)年に銀座~新橋間が開業したことにより、浅草~新橋間8.0kmを完成させます。

一方、地下鉄の将来性に気づいた他の鉄道事業者は、相次いで新路線の免許を申請。
その中には、のちの東京急行電鉄を築き「電鉄王」と呼ばれる五島慶太もいました。
五島は「東京高速鉄道株式会社」の常務取締役として建設にあたり、
1939(昭和14)年に新橋~渋谷間6.3kmを開通させました。

同年9月、紆余曲折の末、東京地下鉄道株式会社と東京高速鉄道株式会社の両社は浅草~渋谷間の相互直通運転を開始。
現在の銀座線の路線が形成されました。

その後、地下鉄は国のもとで一元化して管理されることになり、
1941(昭和16)年特殊法人として、帝都高速度交通営団が誕生しました。そして戦後、1953(昭和28)年に営団路線名称を正式決定し、浅草~渋谷間は「銀座線」という名称が正式につけられました。

ページのトップへ

2.銀座線開通年表

月日 開通区間 延長・備考
1927(昭和2)年 12月30日 浅草~上野 2.2km(東京地下鉄道)
1930(昭和5)年 1月1日 上野~萬世橋(のちに廃止) 1.7km(東京地下鉄道)
1931(昭和6)年 11月21日 萬世橋(のちに廃止)~神田 0.5km(東京地下鉄道)
1932(昭和7)年 4月29日
12月24日
神田~三越前
三越前~京橋
0.7km(東京地下鉄道)
1.3km(東京地下鉄道)
1934(昭和9)年 3月3日
6月21日
京橋~銀座
銀座~新橋
0.7km(東京地下鉄道)
0.9km(東京地下鉄道)
1938(昭和13)年 11月18日
12月20日
虎ノ門~青山六丁目(神宮前→表参道)
青山六丁目(神宮前→表参道)~渋谷
4.4km(東京高速鉄道)
1.1km(東京高速鉄道)
1939(昭和14)年 1月15日
9月16日
新橋~虎ノ門
浅草~渋谷間直通運転開始
0.8km(東京高速鉄道)
8.0km(東京地下鉄道と東京高速鉄道)

地下鉄の父・早川徳次は当初、新橋~上野間5.8kmの建設を計画。ところが、不況や関東大震災のあおりを受けて資金調達が難しくなり、浅草~上野間2.2kmをまず建設することになりました。

1927(昭和2)年に開通した浅草~上野間の開通は予想以上の反響でした。浅草、田原町、稲荷町、上野に駅をつくると、開通初日には始発前から乗客が各駅に殺到し、午前中だけで4万人を超える乗客が乗車したと言われています。この光景を見た早川徳次は、地下鉄の必要性を改めて確信。すぐさま新橋~上野間の工事に着手します。その後、着々と開通区間をのばし、1934(昭和9)年、ついに浅草~新橋間8.0kmが開通します。

東京地下鉄道が浅草~新橋まで開通し、大成功をおさめると、東京市も地下鉄の建設計画を進めます。しかし、東京市は関東大震災の復興事業に追われていたため、地下鉄建設計画が一向に進みませんでした。そこで、東京市に代わって地下鉄建設を進めようとする動きが民間の起業家たちから出てきました。彼らは東京市の地下鉄建設の代行を申請し却下されながらも三度目の交渉で、ようやく「将来、東京地下鉄道と合併すること」「東京市が買収したいときは、いつでもそれに応じること」などを条件に、東京市が保有する地下鉄道の免許の譲渡を認められました。このような経緯をたどり、1934(昭和9)年に東京高速鉄道株式会社が設立されました。翌年1935(昭和10)年に渋谷~新橋6.3kmの土木工事に着手。工事は順調に進み、1939(昭和14)年に渋谷~新橋間が開通します。

東京高速鉄道はすでに開通していた東京地下鉄道の浅草~新橋間の路線に新橋で乗り入れることを想定していましたが、接続方法について意見の対立がありました。そのため、両社は同じ新橋で別々に2つの駅を営業する事態となります。その後、話し合いの末、1939(昭和14)年9月に、浅草~渋谷間の直通運転が実現、現在の銀座線の路線が形成されました。銀座線という名称は1953(昭和28)年、丸ノ内線開業時を前にしてつけられました。

ページのトップへ

3.日本に地下鉄が誕生するまで

地下鉄をいち早く事業として推進し、実現した早川徳次は1881(明治14)年に山梨県で生まれ、早稲田大学を卒業後、政治家を目指すも断念。その後、実業家を目指します。

早川徳次は、南満州鉄道・鉄道院を経て、港湾と鉄道の関係に興味をもち、調査・研究をするために1914(大正3)年、欧米視察旅行に出発しました。ロンドンで地下鉄に乗った早川は、地上の混雑に煩わされることなく時間通りに走る地下鉄に感銘を受け、「東京に地下鉄をつくろう」と地下鉄の事業化を決心しました。

その後、東京に帰った早川は早速、地質や交通状況について調査・研究にとりかかります。当時、日本では地下鉄建設の実績がなく、技術や知識は皆無の状態でした。専門家さえ東京の地盤はやわらかく、地下水が多いので地下鉄建設は無理だと言うなかで、自らの足で市役所の土木課を訪ね、地盤に問題がないか調査しました。

地盤の安全を確認した早川は、地下鉄建設の目的や路線、工事の費用、利益などを試算。その結果、地下鉄建設の費用は2千万円(現在の価値では100億以上)必要であることがわかりました。

早川は独自に資金を集めるのは不可能と判断。1917(大正6)年に「東京軽便地下鉄道」という会社を設立し、資金集めを本格的に行います。地下鉄の必要性を東京市をはじめ鉄道の専門家や事業家、有識者に熱心に説いて回りました。

そのかいあって、1920(大正9)年に「東京地下鉄道株式会社」が誕生します。早川徳次、39歳の時でした。
そして、ここから日本の地下鉄の歴史が始まります。

ページのトップへ

4.人力で地下を掘る

1925(大正14)年、東京地下鉄道は浅草~上野間の地下鉄工事に着手します。
銀座線は東洋で初めての地下鉄工事であり、難航続きとなりました。

とにかく最初の地下鉄工事であり、すべてが一からのことで、着工後、下水管の破裂や地盤の崩壊などの問題も発生しました。

この当時の地下鉄工事は地面の上から穴を掘る「開削工法」で行われました。
これは道路のすぐ下の浅いところにトンネルをつくる方法です。
現代のような最新の機械はなく、あるのは杭打機やコンクリートミキサー、コンプレッサー、鉄の杭や土砂を運ぶベルトコンベアーぐらいでした。

このため、トンネルの掘削は人力で行われました。土はシャベルで掘り、掘削で生じた土砂はトロッコで隅田川の桟橋などに運び、そこから船で埋立地に運びました。
このような作業を、上野と浅草の両方から始め、慣れない工事は難航しながらも、関係者の努力によって1927(昭和2)年に完成しました。

大成建設株式会社ご提供

(1)土留杭の打ち込み

ずい道構築の外側線に沿って布掘りまたは壷掘りをして地下埋設物の有無を確かめながら杭を打ち込みます。

(2)路面覆工

土留鉄杭の進捗につれて路面を約1m掘り下げ、I型桁を架け渡し、その上に木桁を架けて板張覆工して路面交通を確保ました。

(3)人力による掘削工事

土はシャベルで掘り、掘削で生じた土砂はトロッコで隅田川の桟橋などに運びました。

(4)鉄筋のトンネルを築造

所定の位置まで掘り、鉄筋コンクリートのトンネルをつくります。

(5)道路復旧

トンネルの上に埋設管などの支えをつくり、土を埋め戻し道路を元に戻します。

ページのトップへ

5.初期の銀座線の車両

1927(昭和2)年12月30日
東洋初の地下鉄となる浅草~上野間2.2kmが営業を開始し、
1000形と呼ばれた黄色い車両が3分間隔で運行しました。
この車両の色はベルリンの地下鉄の明るい黄色を参考にしたと言われています。
すべての面において、当時の最新の技術を取り入れた地下鉄でした。
車両は火災防止のため全体が鋼鉄製で、自動列車停止装置を導入。
車内は間接照明で、自動開閉ドアもいち早く取り入れられました。

開業時の銀座線車両

初期の銀座線車両